飲食業を断念してサラリーマンに復帰した会社では、良き妻と子供にも恵まれ長く勤めたいと思っていました。
しかし、転職癖(てんしょくぐせ)が付いてしまっているのか5年と持ちません。
アクが強く、またこちらに要求する仕事のレベルが上がり続ける社長に、ついに付いていけなくなり退社してしまいました。
工業分野で本格的な設計業務
次に就職したのは工業分野に特化した機械設計・製造会社です。
耳鳴り・難聴を患っている私に、直属の上司が「いい機会だから治療してから出社すればいい」と言ってくれました。なんてやさしい上司なんだろうと思いましたが、最初だけでした。
前の会社で使っていたのはAutoCAD(オート・キャド)ではなかったので、慣れるのに時間がかかりました。
また、初めての本格的な工業分野の機械設計ということで私の苦手な強度計算やレポート作成も求められ苦労しました。
設計者にもさまざまなタイプがいて強度計算等が得意な人もいれば、やりたいことに対して適切な機構やアイデアが湧くタイプもいます。
私はどちらかと言えば後者で「タクトタイム(サイクルタイムとも言います)をコンマ一秒でも早くする」とか「この要素部品をこういう使い方にすれば装置の大きさがよりコンパクトに収まる」などのアイデア出しが好きでしたし、得意としていました。
あとは目的を達成するまでのスピード(設計から完成までの全工程完遂までの早さ)が”売り”でした。
一口に”機械設計”と言っても農業向けや工業向けで違いますし、工業向けの中でも精密機械や重工業向けなどいろいろな分野があります。
また、作ろうとする機械が扱う”対象物”のことを業界用語で”ワーク”と言いますが、そのワークを「どうする機械」なのかという分別(ぶんべつ)もあります。
加工、組み立て、工程間搬送、検査・テスト・試験・・・。
対象業界も自動車関連、製紙工場、食品工場、電機メーカー、半導体関連など多岐にわたります。
この会社は主に東海以西(いせい)の西日本がカバー範囲でしたが、ありとあらゆる上記で挙げた業界、業種、機種を扱っていました。
それはそれで設計者冥利に尽きると言いましょうか、苦しくとも楽しかったのですが、やはり4年ほど経つと苦しさのほうが上回ってしまいました。
他のサラリーマン大家兼ブロガーさんも指摘されているように、サラリーマン業は頑張れば頑張るほど仕事を突っ込まれていき、自分の首を自分で締めることになります。
案の定、2年経ち、3年経ちして慣れてくると任される案件も大きく、難しくなっていきました。
そして4年目の年末。5案件を並行して顧客との打ち合わせ出張、設計業務、現場組み立て指導、外注設計業者とのやり取り等、連日連夜の激務を上司に訴えても対処してくれず、ついにパンクしてしまいました。
同僚社員や事務員にも当たり散らすようになり、このままでは自分も周りもおかしくなると判断して、無念の辞表提出です。
IT分野の先端企業が岡山にもある
しばらく求職活動を控えていました。長く働ける会社をじっくり探すためです。
一方で「勤め人は、やっぱり自分には無理かもしれない」と思い始めていました。
しかし結婚して子供も二人産まれ、妻も家事と子育てをがんばっているのに私が弱音を吐くことはできません。
ある日、仲良くしていた外注の設計業者さんと飲みに行くと私に良さそうな会社があると言って情報をくれました。
半導体関連業界では有名な会社で岡山が本社です。
ちょうど自社製品である半導体検査装置の設計者を募集しているとのことだったので応募しました。
面接では社長に「転職回数が多いようだが、なぜ?」と質問されて
「私の悪いところなのですが、上司や経営者と衝突してしまいます」
と正直に答えました。繕(つくろ)いようがないと思ったからです。
内心、「これは落ちたな」と思いましたが、なんと合格!
妻も喜んでくれましたが、ここも4年で去ることになるのでした。詳しくは、下記関連記事を参照してください。
この頃には、あまりの転職回数の多さに妻も呆(あき)れていました。小さな娘が二人いるのに、もう少ししっかりしてよと顔に書いてあります。
私の年齢も46才になっていました。
小企業に転職
この時は次の就職先を見つけて、受かってから辞表を提出しました。
自宅からほど近い、従業員20名ほどの産業機械製造会社ですが町の鉄工所といった風情(ふぜい)の建物です。
ここでは、それまで未経験だった「プラントの立ち上げ」業務を経験しました。焼酎の新規製造工場プラントの一部を請け負ったのですが、それを担当する約束で雇ってもらったのです。
国内でも海外でも出張は好きなほうですから、二か月ほど宮崎県に滞在しての監理業務は大変な部分もありましたが苦になりませんでした。
初めての経験が多く刺激的な毎日でした。
同僚の若手社員と外注の職人さんを使っての立ち上げは人心掌握術(じんしんしょうあくじゅつ)も必要になります。
大まかな工程が完了して、あとはなんとかなりそうになると他の者を皆、岡山に返して私一人が現地に残って対応しました。
九州の南部に行くこともなかなか叶わないですから、休みが取れたときは鹿児島に足を延ばしたりして楽しみました。
このプラント業務以外にも、この会社で新規顧客開拓などさまざまな仕事を経験出来たのですが、やはり経営者サイドの不手際や不条理が目に付いてしまい不協和音を生じさせてしまいました。
そして、また「退社」です。
つづく
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