我が家は貧乏でした
戦後日本を支えた「高度経済成長期」も終盤に差し掛かると”プチ裕福”に味をしめた一般庶民が収入以上の生活をし始めて、そこから消費者金融、当時の言い方ならサラリーマン金融、いわゆる”サラ金(きん)”が台頭(たいとう)していた時代です。武富○とかプロミ○とか。
父の父、つまり私から見て祖父が居たボロ長屋。トイレは汲み取り式の家賃1万円。
兄と妹、そして私の三兄弟は無邪気に近所の子供たちと遊んだり学校に行ったりしていましたが、母は内職でミシンを踏み、父は工場でフォークリフトに乗っていた両親にしてみれば6人家族が食べていくには、家計は”火の車”だったようです。
普通とは少し違う”高度経済成長期貧乏”
この頃の”貧乏”は、本当の意味での”貧乏”とは趣(おもむき)が違っていました。
どういうことかと言いますと、貧乏を典型的に表す「粗末な食事」は確かに”定石”どおりだったのですが、衣類や子供への小遣いを”普通の家庭”と同等にしようとするのです。
・「子供には貧しい思いをさせたくはない」という親心、祖父にはいいところを見せたいから無理して”見栄を張る”。
・ラーメンや喫茶レストランでしたが、月に一度や二度は外食する。休日にはデパートに買い物に行く。夏の土曜日は夜店に家族で繰り出す。
あとから判ったことですが、我が家は”家計簿”というものを一切、つけていなかったようです。
理由は明白ですね。
・一つは、面倒くさい。毎日を生きるのに必死で、家計簿なんかつける余裕は無い。
・もう一つは、家計簿をつけるのが怖い。毎日、毎月が赤字なのですから。
どちらも、「貧乏家庭にありがちな単なる”言い訳”」です。
子供たち三人は”ウチは普通の家庭だ”と認識していました。小学校低学年までは。
兄や私が中学生になった頃から、借金取りが自宅のボロ長屋に夜な夜な取り立てに来るようになりました。
こういう光景を見るようになると、さすがに子供でも”ウチは普通じゃない”と認識を改めます。
その後、父は借金取りから逃れるようにして家を出て行きました。祖父は関西に居た父の姉、つまり私の伯母(おば)の所に身を寄せました。
母は私たち三人の子供を抱えて、内職でその地で凌ぎました。
数年後、父が他界したことを機に、社会人になっていた兄と私が手分けして、父の借金先である親戚や友人関係に返済しました。
また、サラ金業者に関しては弁護士先生の協力を得て親の自己破産で解決することができました。
歴史は繰り返す
裕福な家庭に生まれ育った人は、成長すると詐欺やうまい話に乗っかってしまって痛い目に合うと言います。
逆に貧しい家庭に育った人は、親を「反面教師」にして自分自身で”一財産築く”と言います。
両極端なら、まだいいのですが、高度経済成長期を経験した親の子供は中途半端です。
少しだけ”良い思い”をして育った分、どうしても”甘さ”があるのです。
この甘さを次世代に引き継がなければ、日本のために良かったのでしょうが「人間、安きに流れやすい」法則のせいで今の”甘々(あまあま)日本社会”になってしまっています。
私は、自身の二人の娘たち(どちらも高校生)にいい思いもさせてやりたいが、人生の厳しさ、中でも”お金”の怖さを逐一、日常生活の中で教えているつもりです。
具体的には、”友人や家族間でも借金は絶対にダメ!”とか、”欲しいものがあっても、一旦は我慢すること。それでも、どうしても欲しい場合は小遣いを貯めたり、アルバイトしたりして努力すること”などです。
プロ選手の世界を参考にしよう!
プロ・スポーツの選手が優勝インタビューで受ける質問に”優勝賞金を何に使いますか?”というものがありますが、その回答でよく耳にするのが「両親に恩返ししたい」です。
先日、国内ツアーでも今年三度目の優勝を果たしたゴルフの渋野プロは、「実家の車庫が手狭(てぜま)なので広くしたい」とか「冷蔵庫が足りないので買いたい」とおっしゃっていました。
また、女子ゴルフ界の中でもバラエティー番組への出演が多く、奔放な発言で有名な古閑(こが)美保氏は御両親に豪邸をプレゼントしたそうです。
どちらも「愛情を持って接し、育てた子供は何も言わなくてもこうなる」というお手本のようなお話です。
まとめ
これからの日本は確実に「実力社会」になりますので、裕福な家庭で生まれ育った人も、貧しい家庭に生まれ育った人も、他人の目は気にしないで、自分と家族が「幸せ」になる方向に目を向けましょう。
そのための手段の一つとして提案するとすれば、当ブログとしましては「不動産賃貸事業」を、できればプライベートカンパニーを設立して、事業運営するのがよろしいかと思います。
終わり
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