今回は「大家ナカシマ」の小学生時代からのプロフィールを御紹介させていただきます。かなり長いので、6回に分けて投稿します。
目 次
なぜ高専(こうせん)に進学したのか?
もともと「勉強」が好きなほうではないので、物心ついた時から大学に行く気は全然なかったです。
家が貧乏だったこともあって、とにかく早く仕事をしてお金を稼ぎたかったですね。
小学6年生のときに母の手伝いでヤクルト配達をしたりもしていました。小遣いを多めにもらえるのが嬉しかった記憶があります。
あと、小学生のころは小学館の雑誌の付録の工作ものが大好きでよく作っていました。プラモデルもよく作りましたねえ。戦車、戦艦、車・・・。
このように”モノ”を作るのが好きでしたから、将来はなにか「モノづくり」に関わる仕事をしたいと自然に思っていました。
「作るモノ」は飲食物でもいいのです。ゼリーなどのお菓子も作っていましたからね。
中学2年の時です。親が近所の人から「5年間だけど高専が就職に有利らしいよ。奨学金制度もあるし」と高専(工業高等専門学校)のことを聞いてきて「これだ!」と感じ入りましたね。
ただ学力の壁が厚いので受かる自信はなかったですが、落ちたら地元の工業高校か普通科高校に行くつもりでした。私立は眼中になかったです。
とにかく貧乏だったので。
高専に狙いを定めてからは結構、勉強したと思います。
その甲斐があって、なんとか合格することができました。
「これで、この貧乏な家を出て別天地で一人暮らしができる」ことがなにより嬉しかったです。
合格発表が2月初旬と、受験生の中で一番早くてあとが楽でしたね。入学のための準備をすればいいだけですから。
高専の機械工学科を卒業して就職
高専での5年間はそれなりにいろいろ経験できましたが、勉強はやはり好きになれませんでした。特に物理や数学は大の苦手です。理数系に進んだのに。
物理など100点満点のテストで28点をとったことがあります(苦笑)。
部活もしていました。
軟式テニス部です。今は”ソフトテニス”と言うんですかね。
練習は全然”ソフト”ではなく、超ハードでした。
「テニス」と言えば軟弱なイメージがあるかもしれませんがとにかくきつかったです。試合は弱かったのですが、体力づくりと思って頑張りました。
上下関係も軍隊式ですから辞めていく者が続出しました。
また育ち盛りの食べ盛り、お腹も空きますが寮はおかわり自由ですし、おいしかったです。栄養バランスも考えられていたので、この時期に私の体の基礎体力はできたのだと思います。
ちなみに「納豆」という食べ物を食べたのもこの寮が生まれて初めてでした。
学生寮を出た
ただ4年になる前にやはり一人暮らしをしたくなり、まずはクラスメイトの男子学生と二人暮らしをボロの安アパートで始めました。
が、ほどなくして生活ぶりのあちこちで綻(ほころ)びが見え始めて私だけが退去。
先に一人暮らししていた他の友人アパートに転がり込んで、その間に自分の城を探していました。
学校に程近い場所に平屋、風呂無し、トイレはドボン汲み取りの家賃1.5万円の借家が見つかったので入居しました。卒業までそこで暮らしました。
風呂は近くの銭湯に行きました。
4年生からはバイトとバイクに明け暮れた
奨学金だけでは苦しいので、部活はやめてバイトをよくやりました。
和食などの飲食店は良かったですねえ。
まかないが付いている上に、宴会場の片付けではまるまる残しているお客さんの料理をバイト連中でこぞって食べながら片付けました。なんといっても、みんな食べ盛りですから。
あとは「おもちゃ屋さん」。今の時代は、ショッピングモールなどに入っている外資系などが幅を利かせていますが、昔はまだ個人のおもちゃ屋さんが雑貨屋を兼ねていたり、節句ものも取り揃えていたりして地域に根差していました。
社長や店長、従業員のおばさん達とも相性が良く、かわいがられましたし私もよく働きました。
お客さんとのやり取りも楽しかったです。子供のためにおもちゃを買ってあげる大人から、プラモデルを買いにくる子供たちまでいろんな客層が相手ですから。
また、女子大生のお姉さんたちがバイトで入っていたのも刺激的でしたねえ、20才(はたち)前の男にとっては!
同級生が羨(うらや)ましかった
18才や19才でも、地元の普通の家庭の友達は親に運転免許取得代を出してもらうことはもちろん、新車や中古の車を買ってもらって乗り回していました。
私は5年生になってからやっと自動車教習所に通い始めました。
当時14万円くらい掛かったのですが、母親が少し補助してくれた記憶があります。
高専生の間ではバイクの中型免許を16才で取得し、車の免許を18才で取得するのが当たりまえでした。私は原付で2年生まで、バイクの中型免許で4年生まで過ごしました。
友人たちに対して劣等感を感じていましたが、こればかりはどうしようもなかったです。
その反動が社会人になってから出ましたがね。
バイクは限定解除して1200ccも買いましたし、アメリカンタイプやレーサーレプリカなどいろんな種類を乗り継いで試しました。
自分には、やはりツーリング向けの「ツアラー」と呼ばれるヨーロピアンタイプが一番合っているな、ということも判りました。
学生の間はヤマハの125ccの中古オフロード車が愛車で、近県はもちろん九州から北海道までソロ、団体問わず本当によく走り回りました。
高専の5年間は部活とバイト、バイクにまみれていた感じです。
無事にストレートで卒業できました。
そんな5年間でしたが、なんとか留年もせずストレートで機械工学科を卒業することができました。
当時はバブルが始まっていた時期ですから就職先にも事欠(ことか)きません。
私は最初、岡山の中小企業で将来性のありそうなところに狙いを定めていました。
運命の分かれ道
すると友人のひとりが「東証一部上場の電機メーカーを受けるつもりだったが、部活の先輩が行った企業に誘われたからナカシマに譲るよ」と言ってくれたので、そちらに行くことにしました。
こういう出来事も運命の分かれ道ですよね。
その譲ってくれた友人はごくたまにしか交流がないのですが、部長まで上り詰めて順風満帆(じゅんぷうまんぱん)かと思いきや、役職定年となり辞めてしまって、リラクゼーションのフランチャイズチェーン店舗に手を出したりしたあと、小さな会社のセールスマンをしているはず、までで連絡は途絶えています。
人生、わからないものです。
とにかく、私はバブルまっただ中の浮かれまくった日本社会に飛び出して大手電機メーカーの正社員として「20才の社会人」になりました。
つづく
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