サラリーマン時代のプロフィール2(電機メーカー編)

大手電機メーカー勤務時代

はじめは生産ラインの現場で設備保全業務でした。

当時の大手と言われる日本企業は新入社員教育が充実していました。

高校卒を含む全体研修が2週間、その後高専・短大卒および大学卒が2週間、

そして大学・大学院卒がもう一カ月と長い研修期間が設けられていました。

また独身寮や社宅も充実していましたね。

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研修期間中もバラ色!

中でも独身寮は、社員数増加に合わせてちょうど建て替えする時期で一旦、寮生は街中(まちなか)の空いたビシネスホテルを会社が買い取り、そこを寮として使っていました。

会社は郊外だったのですが通勤のための定期券代も会社がすべて負担してくれていたと記憶しています。

そして仮住まいの寮が街に近いわけですから、毎日のように飲みに出かけていました。

今から35年前ですから居酒屋も発展していた時期ですし、同期も学歴に関係なく仲良かったですからね。本当に楽しい時期でした。

およそ一カ月の研修期間が終わり、現場に配属されました。

生産技術部のメインテナンス課

製造ラインの生産設備を作業者に呼ばれて修理したり、定期的にオーバーホールしたりする部署です。

上司や先輩は厳しい人もいましたが、皆、丁寧に仕事を教えてくれましたし、習熟度合いに応じて少しずつ難しいことに挑戦させてくれました。

ここで細かい体験談を二例、御紹介します。

ひとつは、配属先の気難しい係長にとある報告書を提出した際のこと。

呼ばれて席まで行くと「ここ、”参照のこと”は良くないよ。相手に”見てください”とお願いするのだから”参照してください”とか”参照願います”にするべきだよ」と注意されました。

こういう細かいことって、後々(のちのち)まで覚えているものなんですよね。そして私はその件以来、係長の叱咤を受け止めて実行してきました。

もう一つは、事務所改装のためにプレハブの仮事務所に複数部署が集まっていた時期のことです。私たち新米社員が2~3人で電気ドリルを使って部品に穴をあける作業を室内で実施していると、研究職の部署の年配社員からすかさず、

「うるせいわ!こんなにうるさかったらニワトリも卵を産めんぞ!!

と怒鳴られました。

「スミマセーン!」と謝って皆で一目散(いちもくさん)に外に飛び出しました(笑)。

老若男女の社員が皆、怒ったり笑ったりして「会社で仕事しながら生活している感じ」でしたね。

老年の先輩社員が「ナカシマくんよ、ちょっと”エテ公”貸してくれや」と言ってきました。”エテ公”というのは猿のことですから、つまり工具の”モンキー・レンチ”のことです。

逆に私が「○○さん、”タケノコ(水道工事で使う配管部品)”持っていませんか?」と聞くと、「タケノコ~?裏の山へ行って取ってこいや!(笑)」とかね。そんな日々ですから仕事は基本的に楽しかったです。

講習やセミナー、展示会などもコトあるごとに会社が交通費や日当を出してくれて積極的に参加させてくれました。

部署名は幾度か変わりましたが、「生産設備を保全する」という基本的な業務は変わりませんでした。

入社して2年ほど経ったある日、突如「改善グループ」という部署が出来てそこに抜擢(ばってき)されました。

海外出張の前触れ

これが後(のち)の”海外生産拠点設備要員養成所”だったのです。それとなくその事を察知した、勘が鋭い先輩や同僚もいました。

ほどなくして会社側から候補者にメンバーにならないかと打診があり、中には「飛行機は落ちるかもしれないから俺は行かない」とか「外国には別に行きたくない」などの理由で断った人がいたようです。

そんなこんなで当時、末端のメンバーだった私に順番が回ってきました。

私は怖いものも失うものもなにもありません。

ましてや会社のお金で、行ったことのない外国に行けるし給料は海外出張手当と国内給料のダブルでもらえるので、「早く順番が回ってこないかなあ」と心待ちにしていたくらいです。

海外出張に行けるかと打診された時は、二つ返事で受諾しました。

こうして「海外拠点支援部署」の一員になったのが23才の頃です。

改善用の部品を設計して製作する

最初に配属された部署時代から、簡単な修理部品や、改善部品のポンチ絵(見取り図)を自分で書いて、工作室で作っていました。

自作する場合もありますし、加工係のプロ社員に依頼して作ってもらうこともできました。

ただ、加工係への依頼件数も多く、依頼するための手続きも煩雑(はんざつ)ですし部品が出来上がるまでに日数もかかるので、よほど難しいもの以外は工作機械を昼休みなどに使わせてもらって自作していました。

“銀ろう付け”などの特殊技術を要するものは、普段から仲良くしていた加工係の人に無理を言ってお願いすることもありました。

小さな改善設計および製作・施工(せこう)で成功体験や失敗体験を積み重ねていったこの20~27才までの7年間で将来、携(たずさ)わることになる「機械設計業務」の基礎を叩きこまれたと実感しています。

20代後半の揺れる心

海外出張に行き始めたのが24才頃です。

それまで先輩たちが海外拠点で活躍している姿を横目で見ていましたが一年半ほど経ってからようやく出番が回ってきて、そこからは怒涛の海外行きが続きました。

オランダ:一回 を皮切(かわき)りに、アメリカ:二回、台湾:一回、香港:四回。

アメリカは半年とか三か月とかの長期でしたし、出張手当プラス日本での給料がまるまるもらえるわけですから、まさに私の懐(ふところ)具合も”バブルまっただ中”でした。

関連記事「アメリカのピザの店」

しかし”浪費”はしませんでした。

25才くらいから”サラリーマン”という業態に疑問を抱き始めていたからです。

「近い将来、実業家になってお金を思う存分稼ぎたい」と思うようになって、書店に寄っては自己啓発本を買って読んだりしていました。

その中のひとつ、「人生、熱く生きなければ価値がない!」が決定打になりました。

香港への出張が終わり帰国すると、しばらくは海外出張も無いと聞かされた私は腑抜けのようになり、退社のほうに一気に気持ちが舵を切りました。

結婚していたらまた違ったかもしれませんが、20代後半で独身だったので誰も私を止める人がいません。

そして、事業をする為の資金にしようと当時貯めていた800万円ほどを元手に喫茶レストランを開業する目標をたてて実行することにしました。

今にして思えば、なんとも拙(つたな)い無謀な計画です。

つづく

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