ギャンブルはやらない

浪費の中の最たるもの、ギャンブル

ギャンブルのことは、実は私よく知りません。

競馬、競輪、競艇、パチンコ、スロット・・・。

なぜ、よく知らないかと言うと父親がそれらにハマって身を滅ぼしたのを少年の頃に目(ま)の当たりにしたので、物心ついたときから自分は絶対にしないと心に誓ったからです。

もっと言えば誓う以前に”ギャンブルってくだらない”と子供心に思っていたのかもしれません。兄や妹も同じ考えだと思います。

ギャンブルは「浪費」の最たるものです。

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お金の使い方には三種類あります。

・「投資」:手持ちの資産を投じて殖(ふ)やすこと。”リスクを伴う”というデメリット有り。

・「消費」:日々の生活(衣・食・住)に必要なモノを買うこと。

・「浪費」:必要でないモノやコトにお金などの資産を使うこと。何も生まない行為。

ギャンブルはこの中の「浪費」に該当します。

ちなみに”宝くじ”は政府が宣伝しているので一見、健全に思うかもしれませんが当たる確率の低さから間違いなく「ギャンブル」と言えます。

また宝くじはギャンブルの特性である”射幸心(しゃこうしん)”を煽(あお)るモノの中でも最たるものです。

“確率の低さ”だけでなく万一、当たった場合の事後処理がまさに”ギャンブル”です。3億円当たった当人は天から降ってきたような大金を手にして、使い方がわかりません。

投資や事業の元手にしようと勉強した後に手に入れたお金ではないので「浪費」と「消費」を繰り返して、すぐに無くなってしまいます。

購入代金が数百円、数千円だとしても自分や家族にとって無意味なモノ、コトにはお金は使わないことです。「浪費」になるからです。

“依存症”に陥(おちい)りやすい

お酒、タバコ、ゲーム、ドラッグ等と同じくギャンブルも”依存症”になりやすいモノのうちのひとつです。

先述した”宝くじ”同様、”ギャンブル”は種類を問わず射幸心を煽り、まぐれ当たりを期待して労せずして収入を得ようとする行為です。

そしてパチンコやスロットのような身近にある施設で気軽に遊べるタイプのギャンブルは特に”依存症”に陥りやすいです。

地元の私の友人は奥さんと離婚して、3人の子供をシングルファザーとして育てています。

奥さんがパチンコ好きのママ友に連れられてパチンコやスロットにハマり込んでしまい、依存症になり家の生活費までつぎ込むようになったのが離婚した理由です。

それまでの、幸せを絵に描いたような家庭が一瞬にして壊れたのです。

「真夏のパチンコ屋の駐車場に駐車した車の中で、乳児が脱水症状で亡くなる」という痛ましいニュースは毎年どこかで流れることからもわかるように、我が子が死ぬかもしれないことよりも、その父や母は”パチンコ”や”スロット”のほうが大事なのです。

そうではないかもしれないのですが、結果そうなってしまっており第三者にそのように解釈されても仕方がない事象を当事者が起こしたのは紛れもない事実なのです。

人として大事なものを失くしていく日本

今の日本社会は昔に比べて個人の自由を尊重しすぎたあまり、代償として”謙遜”や”恥じらう”という文化を失(な)くしています。

・”人前でこんなことをしたり言ったりしたら恥ずかしい”

・”こんな行動をとったら御先祖様(ごせんぞさま)に顔向けできない”

・”悪い事をしていないか、お天道様(てんとうさま)が見ている”

“単なる昭和の古臭い考え”と安易に切り捨てないでください。

核家族化で祖父や祖母と同居しなくなった昨今、上に挙げたような文言(もんごん)を聞く機会は皆無(かいむ)ではないでしょうか?

そんな一般家庭での”セーフティーネット”が働いていない社会で凶悪犯罪や詐欺事件、いじめ等の問題が起きないほうが不思議とも言えます。

”あいさつ”が不要?

近年のニュースで私が一番驚いたのは、関西のあるマンションでの管理組合決議事項です。

「当マンションの住人は、廊下で小学生住人とすれ違う際に挨拶はしないこと」と決まったそうです。

経緯を説明します。

管理組合の定例会で比較的若い御婦人が「うちの子供には”見知らぬ人から声を掛けられても無視するように”と教育指導している。ついては当マンション内での挨拶を禁止して欲しい」と提案しました。

これに対して年配の組合員男性が「児童に挨拶しても返してもらえないことが多く、前から不愉快に感じていた。その案に賛成する」と応じました。

そして、そのまま決議した次第です。

なにか本末転倒しているように感じる私がおかしいのでしょうか?

近所でも

実は似たような経験を私も近所で数年前から経験しているのです。

我が家は一戸建ての住宅街にありますが、近所の顔見知りの小学生でもシャイな子は挨拶を返してくれません。

高校生ともなるとスマホとイヤホンで音楽を聞きながら歩くのが当たり前で、こちらから挨拶しても”気付かぬふり”をするのです。

横目でチラッとみたりすることもありますからね、私が居るのはわかっているはずです。

その男の子の教育上、良くないと思い一度母親に報告したことがあります。その際のお母様の反応は「あの人はシャイな性格ですから」でした。

自分の息子を”あの人”呼ばわりすることにも驚きましたが、高校一年生の男子が”シャイだから挨拶できないのは仕方ない”で済ませてよいものでしょうか?

私はサラリーマン時代に海外出張で4か国ほど海外生活を経験しましたが先進国、発展途上国問わず、どの国でも朝、昼、晩の挨拶は気軽かつ重要なものでした。

そして当時の日本も同様でした。

しかし今の日本の挨拶軽視の風潮は世界の中でも恥ずべきものだと断言します。

昔も今も変わらずコミュニケーションの基本は挨拶です。

挨拶することによって、”私はあなたを受け入れる準備ができていますよ”という意思表示になるのです。

これは世界共通事項です。

ましてや今後の日本はインバウンドや労働力として、外国人を今まで以上のスピードで受け入れていこうとしているのですから、なおさら挨拶の重要度は増しているはずです。

まとめ

とりとめのない話になってしまいましたが、まとめたいと思います。

ギャンブルに限らず日常のささいな行動も、もう一度日本人は見つめ直すべき時期に来ているのではないでしょうか?

「家族」という最小単位の組織の中で父親を中心にして、言いにくいことをあえて言う、ダメなことはダメと徹底して教える、そういう”しつけ”を今一度やっていく必要があると感じます。

逆に言えば、そういう面倒くさい”しつけ”や、愛情を注ぐという行為を我が子に施(ほどこ)す自信がない男女は結婚しないほうがいいです。

ここまで言わなければならないほど人情味の薄れた、味気ない、無法地帯のような危機的状況なのが、今の”日本”だと思います。

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